月並みですが、僕の人生にも多大な影響を与えたJobs氏の偉業に感謝を述べたいと思う。僕とAppleとの付き合いをとりとめもなく書き留めておきたいと思います。以下長いので暇な人のみ。
僕がMacと出会ったのは小学4年生、10歳のころだった。親父が突然知り合いから安くで譲ってもらったLC575を持って帰ってきた。
(C)http://www.oldmac.jp/lc575.html より転載
テレビが一体化したそのマシンは、和室の一角に鎮座しており、電源を入れるとゲームやお絵かきソフトなんかがはいっていて、とても興奮したのを覚えている。お気に入りはキッドピクスとAQUA ZONE だった。
とにかく夢中で遊んだ。クリックできるものはクリックしたし、家に大量にあったMacPowerやMacLife、日経Macなんかを読みあさり、付録のCD-ROMにはいってるソフトをインストールしたり、夏休みの宿題の一部をキッドピクスで作ったら「親父に作ってもらったんだろう」と疑われたのを覚えている。
これが僕とAppleとの出会い。
中学生の後半だったか、Appleの暗黒時代の始まりに、初めて自分のお金でStarMaxをかった。いわゆる互換機でAppleの黒歴史なんだけれども、おかげで40万とか50万とか高嶺の花だった新品のMacが、20万円弱くらいだろうか、中学生が溜め込んだお年玉と、両親からの「成人するまでお年玉とクリスマスなし」という条件を引き換えに、自分のMacを買うことができた。モニタはおやじのお古だったけど。
ところが、だんだんとMacへの情熱は失われていった。まぁ飽きたのだ。Photoshopの3.0と、クラリスドローを駆使し、ちょっとしたフライヤーや、MDのラベルを作るというくらいにしか活用しなくなった。それでも家に年間購読のように積まれていたMac雑誌は読んでいたので、ジョブズの復帰や、半透明素材を使ったボンダイブルーのiMac発表はすこしばかり心躍るものはあった。
高校時代にインターネットを知り、同時にWindowsを使い始める。MSNメッセンジャーとかチャットをするために、3万円位の中古のDellパソコンを買った。テレホタイムにISDNを2本束ねて高速接続するネット充だった。Macは個人的なアルバイトとして請け負っていた、知り合いのおばちゃんの店舗のウェブサイトをAdobeのGoLiveで作成する仕事マシンになっていた。
高校を卒業し、早く社会に出て仕事がしたかった僕は大学に行かず専門学校でウェブデザイナーを目指すことにした。結局立ち上がらなかったけど、10個も年上の仲間とお金を貯めて、当時登場したばかりの写メール専用掲示板を開発して起業を試みたことがきっかけだったと思う。
ちなみにこのころMacWorld Expoが東京で行われて、ジョブズ氏が来日している
http://ascii.jp/elem/000/000/320/320994/
爆発的にヒットしたiMacシリーズも、だんだん行き詰まってきて筐体に変な柄を塗りたくった苦肉のモデルが出た頃だ。
そして親父よりPowerBook G4を借りパクし、ぐだぐだの専門学校に入った。いい先生もいたが、担任は朝に制作課題を出してあとはずっとディアブロしてる人だった。学校では生徒不足により、一人2台PowerMac G4が使えた。一台をOS 9専用マシン、もう一台を10.2のJagurにしてつかった。ただ、このころはまだX対応のアプリケーションが少なく、グラフィック関係もOS9がまだ主流だった。OS 10.0prも10.1もインストールして少し使ったが、不安定すぎて常用する気にはならなかった。
専門学校を卒業し、ウェブデザイナーになろうと幾つか門戸を叩いてみて、そのハードワークっぷりと給料の低さに愕然として、早々に諦めた。たまたまた募集があった某社運営のAppleのコールセンターの給料がよく、すぐに飛びついて契約社員ではあったがちょっぴり中の人となった。
テクニカルサポートは苦ではなかった。僕の同期は半数が数年来のMacユーザで、新人ながらレギュラーメンバーよりも技術面に限定すれば負けていなかった。そうして楽しくもクレーム電話で胃を痛める日々の中、あいつがやってきた。iPodだ。
厳密に言うと、iPodはすでに世に出ていた。でもいまでいうAppleTVのような、まだメインストリームの商品じゃなかった。でもヒットしたことでコールセンターに困ったことが起きた。
当時ぼくの感覚値では、トラブルを抱えるiPodのオーナーがもつパソコンは、MacではなくVaioだった。なんでソニーユーザがiPodを買うのかわからない。Walkman買っとけよ。僕は心のなかで何度もつぶやいた。USBが認識しない。電圧が不足してるらしく、Windowsの問題ではないにもかかわらず、コールセンター内は99.9%のマシンはMacだったので誰もトラブルシューティングが出来なかった。
日々増えるWindowsユーザの問い合わせをさばくため、Windowsチームが新設された。普段からMacとWindowsを両刀使いしているレアな人材と、「口のたつ」選抜チームが集められた。おかげでiPodのトラブルはうまくサポートできるようになり、僕は上のチーム(いわゆる上司出せというと出てくる部署)に引っ張ってもらえた。
楽しかったコールセンターの日々も、結婚を控え新たな人生を設計するときに退職を決意した。手に職を付けないとと思い、こんどこそWebの世界に飛び込んだ。今度はプログラマーになった。20歳で40万近くあった給料は、試用期間で14万まで減った。でもがんばった。
3年後、やつが日本にやってきた。iPhoneだ。ぼくは個人的な趣味で、SDKのベータ版に登録し、Obj-cのプログラミングを始めた。会社にはサークル制度を始めようかという話があり、社内MLに、iPhone部を作りましょうと呼びかけた。その返事は「部じゃなくて会社作ります」だった。
僕が大阪でiPhone開発サークルを始めたいと言い出したその時に、東京ではうちの社長がiphonez株式会社(後のFEYNMAN)の設立準備に入っていた。なにをいっているのかよくわからなかった。とりあえず僕は大阪にいたままiPhonezの名刺を受け取る事になり、晴れて会社の時間を使ってiPhone開発に携わることができるようになった。たくさんの勉強会も開催した。
不思議なもので、僕の人生はアップルがこびりついてはなれない。魔法にかけられてしまったようだ。
これから僕がどこで何をしようとも、彼の魔法は僕の一日一日を素晴らしい物に変え続けてくれると思う。今日が人生で最期の日だったとしても。ありがとう。ご冥福をお祈りいたします。